秋のいい日が続いています。今日の午後から崩れるようではありますが・・・。皆さん、お変わりありませんか?
西湖の山は、いま紅葉真っ盛りです。透き通るような空を背景に、赤や黄色、だいだい色ーーきれいな色が、山に森に踊っています。
さて10月19日も、空高くとても秋らしいお天気でした。前回の記事に告知させていただいた『西湖・温故知新の会』を、西湖公民館で催させていただいた日です。
会は一部と二部との二部構成。
一部では、50年前にあった土石流災害“足和田災害”をテーマに。二部では70~50年前に、炭焼きをしていた昔のくらしをテーマに、会を進行しました。
昔から自然と共存してきた西湖では、“自然の恵み”をいただくことは、“自然の驚異”を引き受けることでもありました。
この会の一部、二部を通して見ていただくことでーー
自然災害が頻発し、地球が変動期を迎えようとしている『今』、私たちはどう、自然とつきあっていけばいいのか? 生きていくための知恵をどう、つけていけばいいのか?・・・考え、防災意識を持つきっかけになればと、思いました。
今日はそんな会のことを、当日の写真などまじえながら報告させていただきますので、おつき合い下さい。
では第一部から。
会場には地元からだけでなく、
富士吉田、都留、甲府、また東京ーーなどから
興味を持って、大勢の方が来て下さいました。
一部のテーマ・足和田災害は、1966年9月におきた悲劇です。
台風26号で山崩れがおきて、土石流で西湖、根場の集落が襲われたのです。
深夜の出来事だったので、村民は避難しきれず・・・
局地的集中豪雨による山津波や川の氾濫が続く中でーー死者81人、行方不明者13人を含む死傷者が187人、258世帯に家屋被害が出ました。
700人あまりしかいない小さな地域で、その被害はあまりにも驚異的な数でした。
“土石流災害”という言葉が、初めて新聞やTVなどマスコミで使われた、戦後最大の自然災害でもありました。
会の最初はこの災害をテーマにしたドキュメンタリー映画『過去と未来の架け橋・西湖Memory~あの日の災害を乗り越えて~』の上映です。
この映画は11年前、 “足和田村” だった西湖が合併して“富士河口湖町”になる時、村の有志が集まりーー
”西湖がどういう歴史を歩んできたかを振り返って足元を見直し、新たな町に生まれ変わろう!”
と、村民の手だけで自主制作されたものです。
その映画製作に関わった私から、その時の状況を話させていただきますね。
きっかけはーーお二人とも、もう亡くなってしまった方々ですが、渡辺 操さんという方が持っていた昔の西湖を映した8ミリフイルムを、朝比奈 滋さんという方が(映画製作に関わったメンバー)譲り受けたことから始まりました。
そこには傷ましい災害当時の映像、そして樹海を村民自らの手で開拓して、新しい村(『西湖民宿村』です。つまり本法人の事務所があるところです)を作っていった映像がありました。
木を切るのにも、チェーンソーなどない時代です。うっそうとした樹海の野生の木々を切り倒し、土を入れ、地面をならし、やっと家を建てたその作業はーー家族や友人、親戚・・・大勢の身近な尊い命を亡くしたばかりの村人たちの手でなされたのです。
西湖の村人は悲しみを乗り越えて、本当の意味で手作りの村づくりをしたんですね。
そのたくましい姿は、神々しいばかりでした。感動しました。
けれど・・・ここでいくら言葉を連ねても、現実の映像の力にはかないません。
では会場からそのいくつかのシーンを、お見せしましょう。ご覧下さい。
滋さんが譲り受けた8ミリフイルムは、ロクショウ・・・つまりサビですね・・・サビだらけで、最初は見ることができませんでした。
それを滋さんが電気屋さんに持っていって、VHSのテープに移し換えたところから、映画製作が始まりました。
今、この映画の一部をお見せした昔のシーンは、映像がクリアーでないので見にくいと思いますが(おまけに会場から撮った写真でもあるので)--サビだらけのフイルムを再生した、という訳で、この映像が今お見せできる限界なのです。
きれいな画面ではありませんが、それでも時代が時代だったので、TV局が取材に来ることもない “災害時” や “災害直後の開拓” の映像は、とても貴重なものです。
そして先ほどもお話したようにーー
11年前の合併時に、この昔の映像に現代の映像を新たに撮影して加え、構成し直し、ナレーションや音楽をつけて、一本のドキュメンタリー映画を作ったのでした。
さて映画上映後はーー
災害当時、役場職員で若者だった渡辺孝次さんが、いかに大変な状況だったかを話してくださいました。西湖の外部に災害の状況をいち早く伝えたという、熱のこもったお話でした。
会場には西湖の方も大勢いらしてたので、当時を思い出して、涙ぐむ方もいらっしゃいました。
来年、足和田災害がおきて50年を迎えます。
自然の怖さを十分知り尽くし、悲しみを乗り越えてきた西湖がどう変わっていくのか・・・50回忌はひとつの区切りでもあります。
災害を踏まえて再生してきた西湖ーー私はこの場所の一員であることを誇りに思い、また心からありがたく思った第一部の上映会でした。
さて、次は第二部の前の休憩。
休憩時には、西湖の女性ボランティアグループ『西湖・お多福の会』の方たちが、手作りのかりんとうとお茶のサービスをしてくれました。
西湖では手作りのかりんとうを作る方が多いんですね。家庭によって、味も違います。
お多福の会の方たちは、西湖で一番美味しいかりんとうを作るおばあちゃんにレシピを聞いて、作ってくれたそうです。
甘すぎず自然の味がする、優しいおばあちゃん味のかりんとうでした!
そうして参加者みんな、ここで一息ついて・・・第二部の始まりです。
第二部は
『大和田日記』の朗読。
この本は、西湖の長老ともいうべき渡辺昭三さんが、足和田村時代に広報に連載していた文章を、元・役場職員の渡辺靖夫さんがまとめて、昨年自費出版されたものです。
内容は昭和18年から22年間、『大和田』(野鳥の森公園の、ちょっと精進湖寄りの場所)というところで、炭焼きをしていた70年前の暮らしが書かれています。
その原作に、音楽やナレーションをつけての朗読会。
朗読は、お多福の会の三浦ます子さんがしてくださいました。
西湖弁のイントネーションが味わい深い、大熱演でした。
炭焼き生活に入ったのは、昭三さんが尋常高等小学校を卒業して、15才の時。今の中学2年生です。
・・・今では考えられないことですね。もちろん山には炭焼きの先輩もいますが、家族と離れ、獣のいる山の中、たったひとりで雨風がしのげる程度の炭焼小屋で暮らすのです。
しかも戦時中なので、食べるものもない中で・・・『自然』と『自分』と戦いながらの作業でした。それでも厳しい日々、昭三さんが自然を見つめる眼差しは、きらりと光る内容となっています。
やはり・・・後に野鳥の森公園の初代園長さんになる、昭三さんのこと。若い頃から自然への造詣は深いです。
興味のある方は、この本、読んでみて下さいね。(ただこの本は非売品なので、足和田支所か河口湖の図書館で借りて読んで下さい)
そして朗読の後はーー
炭焼き生活をしたご本人・渡辺昭三さんへのインタビュー。
ご自分の15才の頃の話なので、大いに照れられて・・・
現在86才になられる昭三さんに、
「朗読、いかがでしたか?」
の質問ではーー
「この年になって、こんなことになるとはなぁ~」
と、それでも嬉しそうににこにこ答えて下さいました。
ここの昔の暮らしは、書物などに残っていません。
西湖はお米がとれるところではないのでーー細々と畑をしたり、湖で魚をとったり、暮らしは文字通りの自給自足。(仕事としては養蚕をしたり、植林をしたり、炭焼きをしたり、牧畜をしたりでした)
生きていくだけで精一杯で、何かを残すどころではなかったのです。
昭三さんに聞けば「えりぃー時代だっとーわ(大変な時代だった、の西湖弁)」とおっしゃるばかり。
昔の暮らしを知りたければ、直におじいちゃん・おばあちゃんから聞くしかないのです。そういう意味でも、昭三さんの本は西湖の貴重な歴史です。
『自然』や『エコ』という言葉がひとり歩きし、どこか白々と響くようなコマーシャル化した現代にーーこんな昔の暮らしから、私たちは教わるべきことがたくさんあるように思えてなりません。
参加してくださった方たちからは、
ーーこの会を通じて、今の暮しからは得られない何かを、昔の暮らしから得たーー
というような感動の言葉を、たくさんいただきました。会の終わりに私の手を握り締め、ありがとうと繰り返してくれたおばあちゃんもいらっしゃいました。
とてもありがたいことでした。
生活が、急に加速度的に変わっている今だからこそ、この会の名前にあるように、
『温故知新--古きをたずねて新しきを知る』
という思いが、必要な時なのかもしれません。
最後に、この会に協力をしてくださった西湖区の自治体の方々、お多福の会の方々にお礼を言わせて下さい。ありがとうございました。
そしてもちろん当日来てくださって、この会の、深く熱い場の空気を作ってくださった方々、またこの記事を読んでくださった方々にも。
皆さんのおかげで、西湖がまたひとつ生まれ変わったように思えた日でした。
本当にありがとうございました!
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